無限セッションをやめた — Claude との作業を数時間で区切る理由
2026-06-11 / 第15号 / 公開時点では下書き
まず、私自身の言葉をそのまま置いておく。最近、Claude をどう使っているかと聞かれたら、こう答えている。
Claude は試し試し使っている。1 セッションで無限に使おうとしていたこともあったが、今は数時間とかの作業ごとにセッションをクローズしている。この方がいいと思う。使用感も問題なし。
今日はこの「数時間で区切る」に落ち着くまでの話。短い話だが、AI と毎日一緒に働いていると、たぶん誰もが同じ分かれ道に立つ。
最初は「無限セッション」だった
Claude Code を使い始めた頃、私は 1 つのセッションをできるだけ長く引っ張ろうとしていた。月次の会計入力も、サイトの修正も、ちょっとした調べ物も、ぜんぶ同じ会話の続きでやる。意図してそうした、というより、閉じる理由が見つからなかった。むしろ、長く続いているセッションは育てた資産のようなもので、手放すのがもったいなかった。
閉じない理由なら、はっきりあった。セッションを閉じるとは、それまでの文脈を失うということだ。「さっき決めたやり方」「もう説明済みの事情」「この件ではこうする、という暗黙の了解」。会話が続いている限り、Claude はそれを全部覚えている。閉じれば消える。
閉じるのが怖かった理由
恐怖の正体を一言にすると、毎回ゼロから説明し直すのが嫌だった。それに尽きる。
うちは前提の多い作業ばかりだ。EC の運営、3 つのサイト、月次の経理。それぞれに「ここではこうする」という決めごとが何十個も積もっている。それを新しいセッションのたびに口頭で再現するのは、想像するだけで億劫だった。だから閉じない。閉じないから、1 つの会話に何でも詰め込む。会話はどんどん長く、雑多になり、それでも「文脈があるから」と手放せない。いま振り返ると、私はセッションそのものを、書きためたノートのように扱っていたのだと思う。
外部記憶が整って、怖くなくなった
転機は、文脈を会話の外に置く仕組みがそろってきたことだった。具体的には 3 つ。どれも特別な仕掛けではなく、「ファイルを書く場所」と「読む順番」を決めただけのものだ。
1) Claude の永続メモリ。プロジェクトごとの記憶がファイルとして残り、新しいセッションの最初に読み込まれる。第9号で書いた複数 PC でメモリを共有する仕組みのおかげで、どの PC から開いても同じ記憶から始まる。
2) 各リポジトリの CLAUDE.md。サイトごと・プロジェクトごとの作業規約 — 方針、やらないことリスト、手順、過去の経緯 — を 1 枚に書いてある。新しいセッションは、まずこれを読んでから作業を始めるルールにしている。
3) 構築ログと手順書をファイルに残す習慣。何かを組んだら、経緯と手順をその場でファイルに書かせる。「あの時どうやったっけ」の答えが、会話ログの中ではなくファイルにある。次に同じ作業をするときは、そのファイルがそのまま台本になる。
この 3 つがそろうと、文脈は「会話の中」ではなく 「ディスクの上」 にある状態になる。セッションを閉じても消えない。新しいセッションはメモリと CLAUDE.md を読んで数秒で追いつき、「さっきの続き」とほぼ同じ精度で続きが始まる。気づいたら、閉じることが怖くなくなっていた。
副次効果:区切りと記録が強制される
やってみて気づいた効果がもう 1 つある。セッションを閉じるという行為は、作業に区切りと記録を強制する。
閉じる前には「ここまでやった・次はこれ」を言語化して、メモリなり構築ログなりに残すことになる。これをサボって閉じると次のセッションが困るので、自然と毎回やるようになる。結果、未完のタスクが会話の中に散らかったまま放置される、ということがなくなった。区切りの言語化は、次のセッションと未来の自分への引き継ぎ書でもある。
無限セッション時代は逆だった。会話が終わらないから、作業にも終わりがない。「どこまでやったか」は会話をさかのぼらないと分からず、さかのぼるのも Claude 任せ。区切りのない作業は、記録もされない。これに気づいたのは、閉じるようになってからだった。
正解かどうかは、まだ分からない
正直に書いておくと、これが正解だという確信はない。長い 1 セッションの方が向く作業もあると思う。たとえば 1 つの問題を連続して深掘りしていく探索は、途中で切ると勢いが死ぬ。実際、そういう日は今でも長めに引っ張る。
今言えるのは、「数時間の作業単位で区切る」が 今の私の使い方には合っている、ということだけ。使用感も問題ない。また変わったら、その変化ごと記事にする。